光永泰一朗(みつなが・たいちろう)

1976年9月12日午前9時、静岡県生まれ*1。身長51.8cm、体重3790gと出生時から既に大柄だった。

おとめ座。B型。家族は両親のほかに祖母、4歳年下の

2歳から小学校低学年まで江東区の深川に暮らし、同級生とお寺の境内で野球をして遊ぶなど、至極健康的な(これはこの時期に限ったことではないのだが……)幼年時代を送る。

小学校2年からの6年間、父の仕事の都合により、米国イリノイ州・シカゴ近郊のSchaumburgで暮らす。サッカーやバスケットボールなどにいそしむスポーツ少年であった一方で、音楽好きの両親の影響を大きく受ける。長じてやはり音楽の道に進むことになる弟と、Wham!の曲を振りつき(!)で一緒に歌ったこともあったという。 Phil Collinsの歌とドラムの両方に衝撃を受けて両親におもちゃのドラムセットを買ってもらったことも。それが高学年になってからは本物に変わり、先輩たちのロックバンドにドラマーとして参加するなど、彼の音楽の才能はまず打楽器系から発揮された。

1990年12月に帰国後、区立深川第二中学校2年に編入。バスケットボールを始める。
この当時から、ルックス抜群、スポーツ万能、頭脳明晰、音楽だって得意、とたちまちクラスメイト達に一目置かれる*2

1992年、慶應義塾高校へ入学。在学中はバスケットボールに打ち込み、3年生で高校のチームのキャプテンも務めている。更に1994年の「わかしゃち国体」に少年男子バスケットボールの神奈川県代表選手として出場した。
この間、のちに音楽活動をともにすることになる新田雄一と知り合う。新田によると、休み時間に廊下で歌ってばかりでうるさかったとか、そうでないとか。

1995年、慶應義塾大学法学部へ進む。引き続き体育会のバスケットボール部へ入部、1年生で慶早戦のメンバーに抜擢されている。この時点で身長185cm。
在学中より新田とユニット「House of Life」を組み、音楽制作活動を開始。関係者から惜しまれつつも、競技としてのバスケットボールとは距離を置く。

その後、新田が大学で知り合っていた小越啓史が2001年に合流、COVER を結成。2002年9月4日「SPIRAL」でドリーミュージックからメジャーデビュー後、この作品を含むマキシシングル2枚、アルバム1枚をリリース。

2003年12月8日には、下北沢440でのジョイントライヴ「夕方Rallentando」に一ヴォーカリストとして参加。元CANNABIS/トリマトリシカ他の加藤哉子とのデュエットなど、メインアクターらを食いかねない好演をみせた。

2004年3月5日、下北沢440の「夕方Rallentando」に参加。今度は「Taichi & 好位置」のクレジットありで、しかもトリ。フットサル仲間でもある蔦谷好位置のピアノ伴奏や、ア・カペラ等で計5曲を歌った。中には南青山で開かれたSin氏のサロンライヴ(ゲストVo.として弟が出演)を観てから、急いで下北沢へ駆けつけたファンも若干名いたという。

2004年5月12日、COVERよりドラムスの小越が脱退。新田と光永の新しいユニット「BLUE AGE ORCHESTRA」として始動。Dreamusicからマキシシングル2枚をリリースした後、2005年春にDreamusicとの契約を終了した。

2005年10月12日、自ら主催のオムニバスライヴ「Off the Record Production Vol.1」を下北沢440で開き、ライヴデビュー。以後このライヴはシリーズ化が決定、440でのほかのライヴにも出演して好評を博するなど、確実にライヴアーティストとしての評価を定着させつつある。

2007年8月22日には、コロムビア系の新レーベル「J's Records」の第一弾アーティストとしてアルバム「僕はここにいるよ」でソロデビューを飾った。

オフタイムの楽しみはフットサルやバスケットボールで汗を流すこと。
もちろん、その後のビールもセットで、だそうである。

[ sea of serenity ]


*1 後述のとおり、静岡には2歳までしかいなかったため、物心ついてからの「native place」という意味で「東京都江東区出身」とする説もある。つまり「静岡県出身」「東京都江東区出身」のいずれもまちがってはいない。
*2 元クラスメイトが実際にそう証言している