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「スルー力」の背景を考える

昨年の後半くらいから話題になっていたらしい「スルー力(りょく)」。
恥ずかしながら、わたしはつい最近になってこの言葉を知りました。

おそらく「スルー力」について真面目に書かれた「元祖」は、梅田望夫さんのblog「My Life Between Silicon Valley and Japan」に書かれた「スルー力(りょく)の重要性
」とみていいでしょう。

(実は更に「元祖」の記事があるのですが、それはあえてここからはリンクしないことにします。でも面白いので、スルー力が欠如しているあなたはぜひ梅田さんの記事からリンクを辿ってくだしゃんせ)

おそらく「スルー力」とは「自分にとって要るものと要らないものを弁別し、要らないものは見なかったことにできる能力」だと想像できます。
特にインターネット上でいう「スルー力」は、情報の受け手側から見た「ネットリテラシー」の一部と考えてもいいでしょう。たとえば極端な話、「2ちゃんねる」あたりで自分が叩かれているとして、受け入れるべき批判と、ただの愚痴というかたわごとを読み分け、後者は読まなかったことにする能力… こんな説明でわかりやすいでしょうか?

ここで難しいのは「必要と不要」を切り分ける基準。これを履き違えてしまうと大変なことになります。
極端な話ですが、たとえばもしその基準が「好き嫌い」だったりしたら「嫌いなものはスルーでいいや」な姿勢に繋がりかねません。そこまでではないにしても、本当は受け入れるべきだった批判を「筋違いな批判」とか「ただの荒らし」と思い違ってしまうなんてこと、わたしもしょっちゅうやってきました。
本当に受け入れるべきでない情報は大いにスルーすべきでしょう。でも、もしかしたら自分を伸ばすために必要なこと、必要とはいわぬまでも自分の成長に利用できることまでスルーしていないか… スルー力に必要な「フィルター機能」の再確認は、こまめにやっておいたほうがいいと思うのです。
血液からいらないものを取り除くフィルター「腎臓」が、身体に必要な糖分やたんぱく質までを捨ててしまっていることが発覚したら、病院で再検査されますよね?

ここまでは「スルー力」そのものについて書かせていただきました。
しかし「スルー力」というものがインターネット上で大きくクローズアップされる背景にもわたしは触れずにはいられません。

少し前までは、ネチケットというものは「書く人」「表現する人」の側に要求されることが多かったし、またそれを守れる利用者が主流だったように思います。

しかし近年、インターネットに書き込みをする人は、「パブリックな場所への」情報の送り手や言語表現者として、自覚をもたない人が多くなりました。

たとえば、ネット上に何かを書くにあたって「事実」と「感想」と「意見」を切り分けて認識しておくことは、パブリックな場にものを書くには大切なことですし、ネットでも少し前まではほぼ「常識」だったと(少なくともわたし個人は)思っていました。しかし最近は、現実にそういったことを期待することはもはや野暮なことだと考えたほうが無難なようです。実例を挙げようとするといろいろくどくど書いてしまいそうなのであえて挙げませんが(実は一旦書いたあと削除しました)。
とにかく「言葉」に対してある程度以上の特別な訓練を受けた人以外にこういったことを期待するのは、もはややめたほうがよさそうです。

「その結果」というべきか「加えて」というべきか、最近のインターネット利用者は、ネットに「オープンな繋がり」を望んでも「パブリックなメディア」であることは期待していません。(このことについてはわたしがどうこう書くより、『ARTIFACT ―人工事実― : 欲しいのは「陰口で繋がる自由」』で考察されているのを読んだほうが間違いありません)
「ネット上のゴミにいちいち腹を立てずにスルーする」という「スルー力」重視の姿勢は、こうしたインターネットの「パブリック性の低下もしくは喪失」を追認しているともいえると考えたのですが、いかがでしょうか。

しかし、この「スルー力」、語感からすると楽そうに思えますが、実は「スルー力」の発揮というのは精神的にかなり負担が大きいのです(性格や、ネット上のライフスタイルその他により個人差はありそうですが)。「スルー力」自体はネットリテラシーの一部として必要なものなのでしょうが、読み手の「スルー力」に依存しすぎるネット社会は、情報の受け手に精神的な負担を強いるという意味で、決して健康的ではない、と思うのです。

コメント (4)

結局、ネット人口が少ない頃は、皆がルールを守れていた。でも、猫も杓子もネットをやるようになって、ルールを知らない人も参加するようになった。
だから、「書き手」が分別を持ってやるべきネットが「読み手」にその役割を移行せざるを得なくなった。
これがいわゆる「スルー力」が騒がれる要因ではないかなと思います。

ただ、その「スルー力」も自分を知る能力がないと歪んだとらえ方しか出来なくなってしまうんですよね。。。

そうそう、まさにその「書き手」から「読み手」へってことなんです。

「猫も杓子もインターネット」ってのは、Windows95がボジョレー・ヌーヴォーのように騒がれたころからいわれだしていたけど、最近はフリーのblogレンタルサイトが多数出てきて、書き手側の敷居が低くなったというのが大きいと思います。そういうレンタルblogの多くは携帯電話からでも更新できますし。

敷居が低くなるのは書き手にとってはいいことだし、外出先や旅先からの携帯電話更新も(送り手にとっても読者にとっても)楽しいけど、一方で「大衆化すればレベルが下がる」ってのはよくある話。正確には「レベルの(高いユーザもだけど)低いユーザも入ってくるので、低い人がどうしても目立ってしまう」のかもしれませんが。
そうなると、読み手の側が記事がちゃんとしてるものかどうかチェックする必要があるんです。

その「チェック」は、以前なら記事の正しさとか信用できるかどうかとか、とにかく情報としての値打ちをチェックするだけでよかったし、それが「ネットリテラシー」でした。

ところがこの「スルー力」の考えを導入してみると、情報だけじゃなくて「自分個人にとってどうなのか」「自分はこの書き込みと向き合いたい、または向き合うべきなのか」といったパーソナルな部分までが「リテラシー」に導入されることになりますね。

でもわたしもそうだけど人はついつい楽なほうに流れてしまいたがるもんです。それこそ
「おいしいの はんたいは たべたくない♪」
ってやつ。これが更なるネットのモラル崩壊に繋がらないといいんですがね。

Moanista@せるらー:

何だか「悪貨が良貨を駆逐する」つー言葉を思い出しますな。
僕自身、酔った勢いで書き殴ったりする事もあるから、とてもレベルの高いユーザとは言えないけど。。。(;^_^A
いやしかし『だんごセ●ム』なんてやってた頃がもう懐かしいや(遠い目)

だんご○コム!なつかしー…(遠い目)

思えばあの「モーハワイ☆ネット」とか、その基礎になった「ハピタン」とかって、ある意味SNSのハシリみたいな部分があったような気がするなぁ。

そのハピタン系のコミュニティサイト、このコメントを書くために様子を見に行こうとしたら、なんと「ぱどタウン」以外はきのう限りで全部閉鎖したらしい。

モーハが閉鎖してblogに移行したってのはだいぶ前から知ってて、兄やんちとかぴいこちゃんちのblogはよく読みに行ってるんだけど、ほかも全部閉鎖とは…
時代は変わるものですなぁ。
Time goes byつーか、Life goes onつーか…

しかし、これからはWebに「節度あるメディア」と「書きなぐり放題」の両方が要求される時代になってしまうわけで、必然的に両者は「棲み分ける」ことになるんでしょうな…

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